第一話 牙

2.闘


ガッ! 耳障りな音が頭上で響く。 間一髪、刀で爪を弾いたのだ。

侍はそのまま前に転がって、虎女の牙と爪を避ける。 天地が回り背中に石が食い込むが構っていられない。

草鞋が地を踏みつけるのと同時に体を捻り、刀を構えて虎女を牽制する…が。

「むっ!」

今度は四足で地を駆ける虎女。 腹を狙って鋭い爪が伸びてくる。

ザッ!! 

刀の柄で防いだが、爪がかすり手の甲に鋭い痛みが走る。

彼は構わずに刀を虎女に振り下ろした。

しかし、背後に大きく跳んで難なくこれを避ける虎女。


はぁはぁはぁ… 荒い息をつく侍を、地を這うような姿勢からじっと睨む虎女。

(なんという…奴だ…) 侍は命の危機を感じると共に、この虎女に対して感嘆の念を禁じえなかった。

彼は剣の腕は十人並み… しかし一対一ならば、二回に一度は生き残るだろう。 それがここまで押されるとは…

(強い…いや違う…)

ガッ…再び上から飛び掛ってきた虎女を辛うじて避けた。 しかし今度は肩に浅手を負う。 傷の痛みとは別の、冷た

い恐れが背筋を走る。

(奴は人ではない…『型』が違う)

中断に構えた刀の先越しに虎女を見る。 刃先が震えた、それが腹立たしい。

(怯えている…俺が) 

虎女が牙を見せた。 笑ったのか飛び掛る準備なのか。

さわ… 風がわずかに木の葉をそよがせる…


(美しい…) 

不意にそんな思いが浮かんだ。 着飾った女子の男を誘う為の美しさではない。 自由に宙を飛び、地を走る虎女の

何者にも束縛されぬ獣の動き。 男を見据えて揺らがない女の眸。

それは力強い獣の美しさだ。 

どっ! 牙と爪が再び迫る。 喉笛を狙ってきた虎女を、身を投げ出すようにして避ける侍。


(獣ならば…無駄な争いはしない) 起き上がりながら考える。

生きる為に戦い、負ければ朽ちて死ぬ。 それが獣の戦いだ。 しかし、虎女に迷う気配はない。 つまり…虎女は侍

が自分より弱いと見ている。

(…許せん!…) 突然怒りが湧いて来た。 何にであろうか… この美しい獣が自分を対等の相手と認めていないこ

とがであろうか。

侍は刀を持ち替えた。 右手一本で大刀を斜めに、しかも逆手に構えた。

そのまま左手で脇差を抜き、これも逆手に構え…両手を広げる。

がぅ… いぶかしむ虎女。

馬手に大刀、弓手に脇差を逆手に構え、喉笛を、腹をさらけ出すこの構えはいったい…? これでは殺してくれと言っ

ている様なものだ。 虎女はただ真っ直ぐに突っ込めば、好きなところを爪で裂き、牙を沈めることが出来るはずだ。 

そして…

ぐぅぅ… 唸り声をあげる虎女。 侍の意図に気がついたのだ。 最初の一撃で俺の命を奪え、それが出来ぬならば死

ぬのはお前だ、そう言っているのだ。

ギラリと大刀が陽光を返す。 刀が侍の牙ならば、さしずめこれは『虎口の構え』か。 顎の奥の急所をさらけ出して相

手を誘う、そうしておいて肉を…いや骨をかませて心の臓を付く。

もはや剣術の型ではない。 これは獣の型だ。

じりじりと下がる虎女… 突然彼女は背を向けると、草むらに逃げ込んでしまった。

ほぅと息を吐いて刀を下ろす侍。 全身にどっと汗をかく。


ガチャン!

(むっ!?) 虎女が消えた草むらの中で、鉄の音がした。

ぎゃう!! ばさばさばさ!! 一拍置いて、虎女の叫び声と激しく暴れる音が伝わって来る。

侍は刀を鞘に収め、草むらに分け入った。


「これは…」

虎女が地に倒れたままこちらを見ていた。 その目には怒りの、そして憎しみの炎が燃えている。

彼女の足を鉄の牙が…トラバサミががっちりと咥え込んで、彼女を地に引き倒していた。

「…」無言の侍。 このまま彼女の始末をつければ彼の仕事は終わる。 いや、もはや彼が手を下すまでもない。

待っていれば先程の猟師が村人を連れて戻ってくるはずだ。 それまで彼女が逃げられぬ様に見張っているだけで

良い。

『そうだ、こいつは俺の獲物だ』

ただの鉄の塊のはずのトラバサミが、そう言ったような気がした。

(…)ふつふつと理不尽な怒りが湧いて来た。 虎女と自分は命を掛けて戦った。 それをこいつが台無しにした。

がぅ!がぅ!! 牙を剥いて吼える虎女。 獣が無様な姿で繋がれている。 あの美しい獣が。


侍は無造作に虎女に近づくと、その足元にかがみ込んだ。

ザスッ! 虎女の爪が彼の頬をざっくりと裂く。

侍はかまわずトラバサミのばねに手をかけると下に押し下げた。

カチャリと音がしてトラバサミが開く。 あっけなく自由になる虎女。

…?… 虎女は暴れるのをやめた。 足をそっと引いてトラバサミの顎の間から逃れる。 青い肌に赤い血が痛々しく

滲んでいる。

「どれ」侍は虎女の足首を掴んで顔を近づけた。 虎女は思わず手を振り上げた…そこで手を止め侍の動きを見る。

(骨は無事なようだ…頑丈な足だな) 妙な感心をする。 手当てをしてやろうと思ったが生憎と薬の持ち合わせがな

い。

侍は虎女の足に口を寄せるとベロリと舐めた。 鉄と草と獣の味がする。 虎女はびくりと体を振るわせた。

ペロペロペロ… しばらく舐めていると血が止まった。 侍はそっと虎女の足を地に戻す。

とんとん… 虎女は足を軽く打ちつけてから顔をしかめた。

それから侍の顔をじっと見る。 無表情な虎女…その眸は『何故?』と侍に言っていた。

二人の間に不思議な安らぎが流れる。


…おーい…おーい… 幾人もの声が響いてきた。 はっとする虎女と侍。

どんっ! 鈍い音がして虎女の姿が消えた。 無事なほうの足で地を蹴ってとんだらしい。 青と虎縞の獣は森の木々

の間に消えていった。

ふっ… 息をついて侍は立ち上がり、トラバサミを拾い上げた。


ぱちぱちぱち… 囲炉裏の中で音を立てて燃える薪をぼんやり見ながら、侍は茶碗の酒をちびちびと舐める。

…鬼は!!… いきり立つ村人達を前に、侍は一言「逃げた」とだけ言った。 嘘はではない。

侍の体に残る爪の傷を見て、村人達は一応彼の無事を喜んだ…猟師だけは高価なトラバサミの無事を喜んでいたが。

ふん 侍は鼻を鳴らす。 自分達が傷つかずにすんだのだからそれは嬉しいだろう。

しかし、手負いになったと聞くと村人達の態度が変わった。

…手負いの獣は恐ろしいというだぞ…

…んだんだ、厄介な事になっただ…

そして、傷の手当てを受けている侍を非難の目つきで見た。 頼りにならない奴と… 

侍は何も言わずに猟師小屋に戻った。 

村人の届けてくれた握り飯で夕餉を済ませ、いまは酒を飲んでいると言うわけだ。


…?… 前を通る道を見張る為、扉が開かれていた入り口に人の気配がした。 「太兵衛か?」 誰何する侍。

ドクン… 心臓が大きく跳ねた。 闇の中に光る二つの目。 闇が虎縞と青に色づき、女の形となった。

右手が脇に置かれた刀を掴む。

虎女は昼間と違い、二本の足だけで人のように歩いて小屋の中に入って来た。 囲炉裏の向こう側に座る。

どっ… 虎女は床に無造作に魚を投げ出した。 囲炉裏の端につき立ててあった竹串に魚を刺すと、火の回りに刺し

てそれを炙り出す。

パチリ… ジリジリジリ… 薪がはぜ、魚が焼ける匂いが漂う。

あの不思議な安らぎが囲炉裏の周りに流れる。

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